(前回モチベーションマネージメント〔5〕からの続きです。)
(2) モチベーションを下げてしまった信玄の遺言
義信の自害後、信玄は後継者として、側室由布姫(ゆうひめ)の子、勝頼を選びました。他にふさわしい男児がいなかったこともあるようです。信玄は枕元で勝頼ら家臣に遺言を告げました。しかし、その内容がよくなかったのです。
「・・・・跡継ぎについては、勝頼の子、信勝が16歳になったら家督を譲る。それまでは代理の当主を勝頼に申しつける。但し、勝頼は風林火山の旗などを持ってはいけない・・・・」(跡継ぎは自分の子である勝頼にはさせない。孫の信勝に継がせる。但し、孫はまだ小さいから16歳になるまでは勝頼が代理で跡を継ぐこと。また、勝頼は武田家累代の旗を持つことは許さない。)
信玄は諏訪家の当主(勝頼のこと)が、武田家の当主になることに対する反対論を抑えこむために、勝頼を「代理の当主」 としたのです。このような理由があったにしても、信玄が勝頼よりも、まだ赤子であった信勝を跡継ぎにしたことは、勝頼にとってはモチベーションが大いに下がることだったのです。
上司や社長から信頼されないことは最大のモチベーションダウンにつながります。勝頼は社長である信玄から信頼されていなかったことになります。勝頼にとってみれば、信玄が早くから後継者育成をしておらず、突然の信玄の死により、信玄という後ろ盾がないまま、勝頼はもっとも基本的な「後継者という地位の確立」から取り組まねばならなかったのです。そのために、その後、勝頼は「代理の当主」であることを払拭するために無駄な強がりすることになります。結果的にはそこを織田信長から見破られて失敗を重ね、ついには滅亡したのでした。
( 参考文献 武田家滅亡に学ぶ事業承継 北見昌朗著 )
やめない社員研究所 原川 修一